2023年度 日本史部会発表要旨 |
一、中世的穢に関する一試論―尾留川方孝氏の議論にふれて― 広島大学 森木琉 古代以来の思想習俗である穢の中世史的な論点は、①被差別民との関連、②『延喜式』に規定された「穢」(以下「忌の穢」と記述。)の拡大、に大別される。「拡大」とは、「忌の穢」とみなされる事例が多様化したという文脈や、鎌倉幕府などの中世に誕生した新政権にまで及んだという文脈で語られる。 こうした理解の中で、近年尾留川方孝氏は新たな「拡大」を提起した。氏は「忌の穢」は元々神事を妨げるものだったが、中世社会では神事以外の場でも問題視され、世俗化していったと評価する。氏の議論は停滞気味であった古代穢研究にとって新たな起爆剤ともいえるものだが、特段の批評もなされないままその要点のみが取り上げられる傾向にある。 しかし、氏が提起された根拠には多くの問題点があり、そこから導き出された「世俗化」という評価も成立しがたい。そこで本報告では尾留川氏の議論を正面から評価しなおし、これを出発点として中世的穢の「拡大」という議論について一考する。
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二、厳島本願大願寺と毛利氏 県立広島大学宮島学センター 大知徳子 厳島の亀居山放光院大願寺は中世末期から明治の神仏分離まで厳島社の本願として島内の社寺の造営や修理を担っていた。大願寺の住持道本は、神主家や大内氏の保護の下で永正十七年には本願としての地位を確立し、沙弥衆の一人であった尊海とともに五重塔、多宝塔、外宮宝殿等の造営をおこなった。弘治元年十月、毛利氏が厳島合戦に勝利した後は、毛利氏とも良好な関係を築き、大鳥居の再興、本社本殿の建替え、経堂(千畳閣)の造営などが大願寺主導で執り行われた。 これまで、大願寺については厳島社について論じる中で断片的に触れられることが多く、体系的な研究は殆どおこなわれてこなかった。このため、道本・尊海・圓海・宥圓の四代の住職による造営事業について整理した上で、大願寺がいかにして毛利氏と関係を築き、修理造営事業をおこなったのか具体的に検証したい。 |
三、太宰府天満宮の再建と小早川隆景 |
四、宝暦度通信使と幕府儒官との交流――朱子学普及の動向を視野に 立命館大学 松本智也 朝鮮通信使とは室町期から江戸期にかけて、朝鮮国王が日本の武家政権の首領に対し修好や慶賀などの名目で派遣した外交使節団のことである。通信使との交流史研究は日朝友好を明らかにするという現代的関心から多くの蓄積がある。近年では当時の日朝の学術・思想動向を視野にいれ、日朝間の学術交流の研究が進められている。とりわけ十八世紀の日本で勃興した古学・徂徠学をめぐる日朝交流を通して、徂徠学を重んじる日本の学者と朱子学を重んじる通信使との論争、古学の朝鮮への伝来、朝鮮知識人の思想形成にもたらした影響などが明らかになった。一方、十八世紀後期の日本では徂徠学に対する批判から朱子学を重視・普及する動向も現れる。この動向を視野にいれると、当該期の日本社会において通信使との接触がもつ意味について検討の余地が大きい。本発表では宝暦度通信使(一七六四)と幕府儒官との交流に焦点を当ててこの問題を検討する。 |
五、真木和泉における「天」と「人心」―徳川政権認識を手がかりに―
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六、大政奉還後のイギリスにおける日本の政権移行の捉え方 ―駐日公使パークスの視点を中心として― 長崎大学 田口由香 本報告は、慶応三年(一八六七)十月の大政奉還によって、イギリスは日本の政権がどのように移行すると捉えていたのかを検討するものである。駐日公使パークスは、大政奉還後も徳川慶喜が最終決定権を留保しようとしていることを指摘しながら、日本が立憲的な政治体制に向かうことを想定し、天皇宛の信任状を外務大臣スタンリーに依頼した(二〇二一年度広島史学研究大会 日本史部会発表)。石井孝氏は、パークスは「大政奉還において、幕府・諸藩を含んだ日本の全支配勢力が一致協力して、天皇をいただく統一国家に向う途をみた」としている(『増訂 明治維新の国際的環境』吉川弘文館、一九六六年)。また、パークスは、一八六八年一月一日の兵庫開港を前に、これまでの幕府の貿易独占による弊害が除かれることも期待したとみられる(外交次官ハモンド宛書簡)。 本報告では、パークスの視点を中心として、大政奉還後の天皇・将軍・大名の関係をどのように認識し、日本の政権移行をどのように捉えていたのかについて検討したい。 |
七、日本革新党の議会活動と新体制運動への過程 |
八、中央教育審議会と大学紛争 広島大学七五年史編纂室 石田雅春 大学紛争については、近年、小池聖一(『日本歴史』八七三号、令和三年)や市川周佑(『史学雑誌』一三〇巻、令和三年)が新資料を用いて「大学の運営に関する臨時措置法」(昭和四四年八月)の成立過程を分析し、政治史での実態解明が大きく前進した。これらの先行研究では、「大学の運営に関する臨時措置法」の成立過程において、中央教育審議会の答申「当面する大学教育の課題に対応するための方策について」(昭和四四年四月)が果たした役割が明らかにされた。 しかしその一方で、中央教育審議会自体がどのように大学紛争を認識し、その対策を立案したのかという点が必ずしも明確ではない。報告者はこれまで中央教育審議会の研究を進め、一連の成果を発表してきた。こうした成果を踏まえながら、本報告では、文部省や与党自民党の動向、世論の動きのなかで、中央教育審議会の答申形成過程を位置づけ直すとともに、その意義を明らかにする。 |